歌う声が、静かに響いていた。

the 3rd day [ If there is a got ]

「起きたか?」

ソオルの声がして、ルミナは紡いでいた旋律を止めた。

「熱が出たんだ。ルミナ、倒れたんだぜ。昨日」

「うーん、そうみたいだね」

またやっちゃったねと苦笑するルミナを見て、ソオルは深々と溜息をついてその場にへたり込んだ。
そして、そのまま彼のベッドに顔を埋めた。ああ、文句の一つでも言ってやろうと思っていたのに。
皆、どれだけ心配したと思ってるんだと、怒ってやろうと思ってたのに。
違う思いばかりが先行して、口をついて出てきそうだ。

(起きてくれて、よかった…)

絶対に口にはしないけれど。してはやらないけれど。

怖かった。
倒れたルミナを背負って、大急ぎで孤児院まで帰った時。
あんなに短い距離が、あまりにも長くて。
どうしても余計なことまで考えてしまう。
背負った体。16歳という年齢からしたら、あまりにも小さく、か細いルミナの体。
軽すぎて、背負っている感覚すらなかった。

そのまま、消えてしまいそうなほど。

「ソオル」

ルミナの細い指が、ソオルの短く切った黒髪に触れた。










「きれいな髪だね」

水色の傘をさした、亜麻色の髪の少年が言った。

あまりにも唐突な出会いと言葉。
しかし、そんなことさえもうどうでもよかった。

(なんにも、しらないくせに)

幸せしか、知らないくせに。
少年から顔をそむける。ひざに顔を埋めると、髪の毛が擦りむいたひざの傷にあたって痛くて、無性に腹が立った。
この少年にも。
能天気な顔して、明るい声で、きれいな髪だ、とか言って。

「君、どうしたの?怪我してるし、雨降ってるのにこんな所で座り込んじゃってさ」

「……うるさい」

「そう?僕そんなに声大きくないと思うんだけどなぁ…。ねえ君、家どこ?入れてってあげるよ」

言いながら、少年が傘を少し前に突き出した。少しだけ、雨が止んだ。

「うるさいって、言ってるだろ!」

「うわぁッ…!」

近づいた少年を、思い切り突き飛ばした。
傘は開いたまま少年の手を離れ、少し少年から離れた所に転がった。雨が、また落ちてきた。
傘を落とした少年は、両手を地面に付けてしりもちをつく。
着地地点が悪く、水溜りが飛沫を上げた。少年は泥だらけだ。少しこっちにも飛んできたけれど。

どうするかな、こいつ。
怒って帰るかな。或いは、おれのこと、殴りに来るかな。
ふと、そんなことを考えた。

(それなら、さあ)

いっそ、おれが息しなくなるまで、やってくれよ。

少年が立ち上がる。
跳ね跳んだ傘を拾い上げて、付いた泥を払った。
帰るのかな、と思った。
しかし、少年はそのまま路地を出ることはせず、また此方に近づいて来る。
(殴ってくのかな。じゃあ、一発程度じゃ、駄目だゾ)

すると、少年は傘をさしたまま、すぐ横に体育座りで座り込んだ。
雨が止んだ。否、少年の傘が、また雨を遮っていた。

「何、やってンだよ」

眉をひそめて隣に座る少年を見た。
手に付いた泥を拭いながら、少年は少し瞳に涙を溜めていた。
その手のひらには、薄く血が滲んでいる。

「君が帰るまで、僕もここにいる」

「はあ…!?ふざけンな!邪魔なんだヨ、帰れって!」

「君が帰るまで帰らない!」

真っ直ぐに見つめてくる少年の目が、その時はただ煩わしくて、

「うるせェンだよ!何も知らないクセして…!」

親に捨てられたことなんて、無いくせに。

「じゃあ教えてよ!」

こんな絶望も、何も、知らないくせに。

少年の襟首を掴んで立ち上がった。自分よりも少年の方が背が高くて、少し不格好だったけれど。
そんなことも気にせずに、叫んでいた。
止まることを知らないように、溢れ出してくるように。

「帰る家なんて、ねェンだよ…!」



(アタシはアンタなんて要らなかったのに。泣くし、喚くし、本当ラクじゃない。アンタがいちゃ、男も寄ってきやしない)

(バイバイ、こんだけ育ててやったンだから、文句ないでしょ。あーァ、アンタなんて、産まれてこなければ良かったのにねェ)



(じゃあ、じゃあなんでサ)

おれを、産んだ の?

少年の襟を手放して、へなへなとその場に座り込んだ。
雨と、雨とは違うしょっぱい水が、顔を濡らして、
あの女に殴られた時の、もうとっくに治った左頬の傷が、じくじくと痛んだ。

(好きで、産まれた、わけじゃない、なんて)

違うのに。だって、本当は、産んでくれて、ありがとうって
おれは生きているのに。生きていたいのに。

(本当は、アンタに愛されたかっただけなのに)

言葉の代わりに、涙だけが止まることなく流れ出てくる。
このまま干からびてしまえばもうこんなに悲しくはならないだろうか。
だけど、そんなわけにもいかなくて。
(頭ン中、ぐちゃぐちゃだ)

ひざも頬も、もう痛くなかった。ただ唯一鈍く痛む、突き刺すような胸の痛み。

そっと、髪に触れる感触。
驚いて隣を見やると、少年の手がこちらに伸びていて、
その細い指が、頭を撫でていた。

「やっぱり、きれいな色の髪だね」

空気を読まない少年の発言に反抗しようとしたが、力が入らなかった。
あまりにも少年の瞳は、真剣だったから。



「……きれいなもんか…こんな、あんな(オンナ)と一緒の色なンて」

「でも、僕は好きだよ」

「え……」

今度は違うことに驚いて、少年を見た。

初めて言われた言葉だった。



「小さな夜の色。皆、夜は怖いというけど、僕は好きだ。この深い色、好きだ」

惜しげもなく好きだと言う少年に半ば呆れと、なにか煩わしい以外の別の感情を感じて。
気付くと、涙は止まっていた。
少年はそのままひざをついて立ち上がると、それじゃと言って微笑んだ。
初めてみる、あまりにも美しいその微笑み。

「帰る場所が欲しいなら、僕が君の帰る場所になる。
君が寂しいというなら、僕が歌を歌ってあげる。
家族が欲しいなら、僕が君の家族になるよ」

そう言う少年の声は、頬笑みと同じくらい美しくて、すこし、甘いようで。
まるで、謳っているようで。
そして、少年はその笑みを湛えたまま、その美しい音で、手を差し伸べた。

「一緒に帰ろう。僕はルミナ。君は?」

雨は、もう止んでいた。

「…ソオル…」










「ソオル?」

「ん」

ベッドに顔を埋めたまま動かないソオルを、ルミナは呼んだ。
返答をしたソオルに、ルミナは安心したように笑った。
そして、ソオルの髪に指をからませながら言った。

「やっぱり、きれいな色の髪だね。…シャンプーは何をお使いですか?」

「やめろ」

「はむっ…!」

ソオルは素早く顔を上げると、上半身だけベッドで起き上がっているルミナの顔に枕を押し付けた。
支えを失った枕は、そのままルミナの腹部のあたりにずり落ちた。
その様子が少しおかしくて、ソオルは声をあげて笑った。
すると、ルミナも首をさすりながら、楽しそうに、けれど控え目に笑い返す。

「ルミナ、もう大丈夫なのか?まだ顔が少し赤いけど」

「相変わらず心配性だなぁ、ソオルは。変わったのは身長だけだね」

「うるせェ。根に持ってやがンな」

ルミナは元々小柄で、年から考えると大分小さい。
それでも、出会った当初はルミナの方が、ソオルより大きかった。
しかし今では、成長期も迎えた14歳のソオルの方が、ルミナより頭半分ほど大きくなっていて、それがルミナは気に食わないらしかった。

「あはは…っケホっ…ごほっ…」

「お、おい、大丈夫か?水持ってこようか?」

「っ……ん、いいよ」

慌てて立ち上がったソオルを、首を振ってルミナは制止する。
すると、何か思いついたのか微笑んで、唐突にソオルの腕を引っ張った。
バランスを失ったソオルは、ルミナの上に倒れこんだ。

「うわッ…!」

「アハハハ、ソオル、吃驚しすぎ」

「てめッ!まだ熱で頭浮いてるんじゃねェか!」

「そうかな…そうかも。じゃあ、ソオルにうつす」

そう言うと、ルミナは両手をソオルの頬にあてがって、そのままゆっくり引き寄せた。
こつん
そう微かに音がして、ルミナの額とソオルの額が重なった。

額に触れるルミナの温度。ソオルは瞳を閉じた。
(あ、やっぱり、少し熱い…)

そう思って、少し額を離すと、瞳を開けた。
(あ…?)
ルミナの顔越しに、先ほどルミナが気にしていた首筋が垣間見える。

ソオルは、言葉を失った。





ぽつん、ぽつん
顔に何か降ってくる。ルミナは瞳を開いた。
そして目にした光景に、困ったように眉をよせて微笑んだ。

「ソオル、どこか痛いの」

ソオルは再び額を重ねると、微かに首を横に振る。
それが少し擦れて、痛くて。でもきっと、ソオルが痛いのはそこじゃなくて。
ルミナは悲しげな笑みを浮かべた。

「じゃあさ、なんで」

ルミナは再び目を閉じた。
ごめんね、と。頭の中だけで呟きながら。



「ソオルが、泣くんだよ」



ソオルの瞳から、ルミナの目蓋へ。
そして、ルミナの頬を伝って、涙は流れ落ちた。

(      ああ、駄目だ)

ソオルは思った。

世界は確実に終わろうとしている。あまりにも幸せで、忘れそうになっていた。

(世界が消えるまで、あと、5日)

もし、神様という存在が、未だこの消えゆく世界にいるのなら、どうかお願いだから。





世界を消してしまわないで。









第3話 終